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梅雨の合間にほおずきを思う

 6月、というか今年前半も今日で終わり。ここ数日降り続いた雨も夕方にはすっかりあがって、雲の切れ間から青い空が覗いていた。ところで、西日本では記録的な雨らしくて、D老師の故郷・熊本では6月の観測史上まれに見るほどの大雨となったとか…。被害が広がらないよう祈るばかりです。

 雨が上がったばかりの夕暮れは、風も涼やかで、散歩にはうってつけでした。日が翳ったキャンパスを歩きながら空を見上げると、白い半月が静かに浮かんでいました。僕の好きな上弦の月です。こんな時間、ふと、懐かしい歌を口ずさんでしましそうになります。

 いくつかの 水たまりを残して

梅雨がかけぬけてしまえば

湿った風の背中越しに 

君の好きな夏がきます

 そう、季節はもう夏なんですね。この時期になると、僕が何よりも待ち遠しかったのは、縁日やお祭りといった類のものでした。たとえば、浅草のほおずき市、谷中の朝顔市…喧噪の苦手な僕にしては珍しく、そういう昔ながらの縁日には、よく足を運んだものでした。丹精を込めた小さな鉢植えの朝顔や薄い紅色に染まったほおずきを眺めながら、ゆっくりと流れてゆく時間に包まれている感覚が、何よりも好きでした。そういった好みは、ひょっとすると今でも変わらないのかもしれませんけれど(笑)。さて、どうなんでしょうね。

 あの日君にせがまれて 出かけた小さなお祭り

 綿菓子の味 アセチレンの光

 君は赤いほおずきを買った

 気分転換を兼ねて、久しぶりにブログのテンプレートを、この季節に相応しいものに変えてみました。間もなく七夕。梅雨の合間の夜空に浮かぶ星に、願いをかけてみたい…そんな気持ちになれそうなテンプレートです。ね、いかがですか。

 長かったリハビリ・休養期間も今日で終わり。明日からは気分一新して、本来の自分らしさを思い存分(調子に乗りすぎない程度に…だけど)出して行けたら、と思っています。ま、それは僕の願掛けの内容ではないけれど。

 さ、新しい一日のために、今日は早めにお風呂に入って床に就くことにします。今夜はきっとクーラーなしで、ぐっすりと眠れそうな気がします(笑)。ではでは。

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にじむ後ろ姿に何を語ろうか

 たとえば昼時、キャンパス内をそぞろ歩きしていると、たまに4年生(と言うか、もう「卒業生」ですね)とすれ違うことがある。そして立ち話をする。そう、考えてみれば、6月も明日で終わりなのだ。いつの間にか卒業生が寮を出て、キャンパスを巣立ってゆく時期を迎えているのだ。話を聞くと、すでに学校を去って行った卒業生も少なくはないのだと言う。だからというわけでもないだろうけど、この一両日は、別れの季節に相応しい梅雨空が広がっている。まるで空が別れを惜しんでむせび泣いているようにさえ思えてくる。立ち話のあと、「じゃあ、元気で」と声をかけて卒業生に別れを告げる。その瞬間、なぜかこんな駄句がひょいと思い浮かんできたりする。

 「後ろ姿の 滲んでゆくか」

 僕は山頭火(ちなみに俳人・種田山頭火は僕の高校の先輩のひとり。先輩としてはほかに詩人の中原中也などがいます。)でもないし、季節も梅雨なので「時雨れて」行きはしないものの、そぼ降る雨に卒業生の後ろ姿が何となくかすかに滲んで見えるっていうのは、やはり無理からぬこと…だよね、たぶん。

 さて、今学期、僕に残されている仕事と言えば、あとは7月3日の期末試験の監督ぐらいのもの。それ以外では、五月雨(さみだれ/旧暦五月の雨のことで、つまりは梅雨のことです)式に遊びに来てくれる学生とおしゃべりすることぐらいしかないみたいです。なかには小論文用の資料を探しに来る学生、卒論のテーマについて相談しにくる学生もいて、僕としてはとても楽しく、気分転換になるのだけど、今学期授業が少なくて時間をもてあましている僕のところに、もっと足繁く通ってきてほしいぞぉ…と思ってしまうのは、ははは、やっぱり贅沢な願いってもんですね。

 う~ん、それにしても雨模様の日には、どういうわけか文章をすらすらと紡ぎだすことができない、みたい。これは一体どういうわけなんだろうな。自分でもよくわからないけど、こんな日のブログ日記でもちゃんと読んでくれる人がいる…それだけでも、僕は十分に幸せなんだろうな。雨の音を窓越しに聞きながら、そんなことを考えてる僕です。

僕の青春グラフィティ 続・お風呂編 

 どういうわけか今夜は、ブログ更新用のページを開くのに1時間もかかってしまった。かつて(いや、もしかすると今もそうなんだけど)「瞬間湯沸かし器」と呼ばれるほど気が短かった僕としては、よくもこんな長い時間的空白を、キレることなく待てたものだ、と思う。はは、ほんとに冗談抜きで。

 湯沸かし器、というのが話の枕になってしまって申し訳ないけれど、昨日の続きを…つまり、お風呂の話ってことです。僕の故郷が山口だということは、これまでに何度も書いているけれど、僕が生まれて10歳になるまで住んでいたのは、山口市の「湯田」という学校区の片隅でした。その名前からも推察できると思うけど、僕が生まれ育った場所は、県内有数の温泉地だったわけです。湯けむりの中で僕は大きくなった、と言っても差し支えありません。小学校5年生の時に、市内のいちばん外れに近い宮野に引っ越ししたんだけれど、ここにも温泉がありました。たびたび温泉に浸かるような習慣はなかったけれど、僕の温泉好きは、幼い時から知らず知らずのうちに育まれてきたんだと思います。もっとも、好きと上手は別物で、僕はいまだに上手に温泉に入ることができない…ということも、ここで正直に告白しちゃいますけど(笑)。

 温泉の話はさておき、お風呂の話を。小学校5年生から高校卒業までの8年間、僕は宮野という地域で暮らしたわけだけど、僕の住んでいるあたりには、上下水道もガスも通っていなかった。だから水は井戸水だったし、お風呂は、伝統的な五右衛門風呂。わかりやすく言えば、巨大な鉄製の窯を想像してもらえれば当たらずとも遠からず、です。風呂を焚くのは僕の役割で、毎日斧を振るって古材を薪にして湯を沸かしてました。気が向いて、早めに風呂を焚いたときは、ちゃっかりいちばん風呂を楽しんだりしたものです。風呂場の窓を開け放って、夕闇が迫る空を眺めながら、ゆったりとした気分で入る五右衛門風呂は、今でも忘れられない大切な追憶の一つなんですね、僕にとって。追い焚きしている風呂でのぼせてしまいそうになりながらも、外から入ってくる風を顔で受け止めると、何とも言えぬ爽快な気分になったものでした。

 今でも時々、あの頃のように自分で薪を割って湯を沸かし、大自然の中で、のんびりと湯船につかってみたいなぁという、ある種の憧憬に似た思いに駆られてしまう僕なのです。たった一つあの頃の僕と違うのは、できればお湯に浸かったら、よく冷えたビールをググッとあおってみたいぞぉ、と思ってしまうってこと、かな(笑)。

 あまり(というか、全然)大したもんじゃないけど、以上、僕の青春グラフィティ・お風呂編…でした。ではでは。

 【追記】  沖縄では、去年よりも11日遅く梅雨明けしたそうな。ところがこっちは、昨夜来、雷鳴と稲光がゴロピカと賑やかで、今日一日断続的な雨模様だったよ。その分、暑さはしのげたけれど。

至福の○○は至難の業…かな

 気がつくと、もうすっかり夜は更けてしまっている。ケータイの文字盤が示している時刻は23:26。あと30分もすれば、当たり前のことだけど、今日という一日が終わってしまう。ちょっと焦りながらパソコンに向かってはみるけれど、ブログの更新を行う気力が、どういうわけか湧いてこない。こういうことって、ちょくちょくあるような気がする、う~ん、たぶん何ごとにつけてもね。

 こういうのって、つまるところ僕が気分屋なのだと告白してることになるのかもしれない。ま、それはそれで、弁解のしようのない事実なんだけどさ。

 でも、何かに集中しようとテンションを上げようとするときには、いくつの条件がぴったり満たされていないといけないんじゃないか、とも思う。今の僕は、というと、急に枝豆を茹でて食べたくなって、笊にいっぱいの枝豆をゆでて、まだ熱々の状態の枝豆をはふはふと食べてしまった。これが30分前。ついでに、冷蔵庫で冷やしておいた大ぶりのトマトを一個丸かじりして、今のところ、結構おなかがいっぱいになってしまっているのだ。こんな時には、血液が消化を助けるために胃のあたりに急行してしまってるのかもしれない。…というわけで、頭の方には、なかなか血が回らなくて、脳みそが酸欠状態になってるに違いないのだ。ま、何はともあれ、最近なかなか食欲が湧いて来なかったから、こんな時間帯でも、おなかに何か入れたいと思う自分には、ついつい甘くなってしまうんだよなぁ。以上、他愛もない言い訳でした><

 そこでまた話は飛躍するんだけど、えーっと…つまり「お風呂」の話。正直言って、僕、武漢でも木造りの風呂桶を特注してしまったほどの風呂好きなんですよね。毎日熱い風呂に浸からないと、気分がさっぱりとしない。もちろん夏の暑い時期でも、熱い風呂が最高!でも、実は、ここでもいろんな条件が重なり合って、すべてがぴったり合った時に、はじめて身も心もフワァ~っと溶けてしまうような至福のバスタイムになるんです。もちろん、その日の気温、お風呂の温度、僕の体調などなど、条件を数え上げればきりがないけど、これらがぴったり合うなんてことは、1年に一回あるかないか、ってくらいの頻度なので、至福の風呂を楽しむ域に達するのは、実を言うと至難の業なのだ、ほんとに。

 要するに何が言いたいかというと…お風呂というのも伝統的な日本文化なんだけど、それだけに奥行きも深い、ってことなんです。ということで、だれか、日本の風呂文化について論文書きませんか。実地調査としてのインタヴューにはいつでもお答えしますから(笑)。

僕の青春グラフィティー 「マイケルとトンカツ」編

 ほんの数日前に「人生50年」なんてしんみりとしたテーマでブログを書いたばかりだけど、こういう話っていうのは、案外あとを引くものなんでしょうか。今日は、外電で「マイケル=ジャクソン急逝」の報。マイケル=ジャクソンと言えば、僕がまだ学生だった頃に脚光を浴びて、一世を風靡した芸能人だった。僕は、流行には疎いので、マイケルにあまり関心は持たなかったけれども、思い返してみると、街にもテレビラジオにも彼の歌や姿で溢れかえっていたような気さえ、しないではない。でも、今になって、彼の訃報を耳にして、胸にいちばんしみ込むのは、彼が僕と同い年だった、ということなのだ。マイケルの早すぎる死を悼む声がネット上に広がっているけれど、僕は、ある意味他人事でない、胸に何かがつきささるような思いで、そのニュースを聞いていた。

 ところで、マイケルが絶頂期を迎えたのは、80年代から90年代にかけてだったように記憶している。僕は、といえば、70年代の終わりに大学入学をきっかけに上京し、いろいろな事情が重なり合って、東京からの撤退を決意するまでのほぼ10年間、東京暮らしを続けていた。マイケルの歌をよく耳にするようになったのは、僕が池袋から電車で20分ほどの郊外にあるSという町に住んでいた頃だったように思う。その町は、アパート周辺を歩けば、都内にしては珍しくまだそこここに畑が広がっている、どこかしら牧歌的な雰囲気さえあった。まあ、30分も歩けば、もうそこは埼玉県で、限りなく東京の周縁部に僕はぶら下がっていた、って言えなくもないけれど…。

 わずか2年間暮らしたに過ぎないその町のことを思い浮かべて、まず連想するのは、残念ながらマイケルのことではない。第一、葱畑のそばでムーン・ウォークをして遊ぶなんて超日常的発想も僕にはなかったし。僕が、ふと連想してしまうのは、アパートのすぐそばにあった精肉店。その店が一部改装してトンカツ屋を開いていた。僕は、月に一度ぐらいのペースで、その店でトンカツを食べた。値段も手ごろだったし、ご飯、味噌汁、キャベツの千切りはお代わり自由ってところも気にいってた。何より、トンカツそのものも、目の前できつね色に揚げてくれて、その香ばしいにおいを嗅いだだけで、ますます空腹感が募ってくる、その感覚が、今でも懐かしく思い出されるのだ。何といっても、自分の店の肉を使って揚げるトンカツ。その味は、当時目いっぱい貧乏だった僕にはぴか一だったような気さえしてくる。はは、追憶というのは、いつもそんなふうにすべてを美しいものへと変化させてしまうなのかもしれませんね。

 マイケルとトンカツ…あまり結び付きはないようだけど、僕には80年代半ばの僕の生活を目立たぬところでそっと支えてくれていたのかもしれません。

パスタ話 のち 冷や汗

 最近、僕にとっての頭痛の種、と言ったら、食事のことです。今年に入ってからというもの(つまり退院以来ずっと、ってことなんだけど…)食の好みがすっかり変わってしまったみたいで、武漢料理をなかなか体が受け入れられなくなってしまっているんですね、これが。あるいは、なかなか食欲が湧いて来ないといった方が、より的確なのかもしれません。昔馴染んだ料理が、ついつい恋しくなってしまう、というのが今の僕の症状です。やれやれ。

 というわけで、近頃、圧倒的な割合で作っているのは、パスタ料理。手間も時間もかからないし、一皿で、いろいろな食材を混ぜ合わせて作ることができるので、最悪の事態だけは何とかしのぐことができているという状況です。よく作るのは、夏野菜とベーコンのパスタ。素材は、オリーブオイル、ニンニク、人参、トマト、ナス、ピーマン、ベーコン。味付けはブイヨンに塩コショウ。パスタは250gで茹で方は、当然のことながらアルデンテ。僕としては、かなり気に入ってる料理なんだけど、いつも一人で黙々と作っては食べるというのは、ある意味、味気ないって気もする…。

 だから、というわけでもないけど、今日は、3年生のZ君に誘われて、南門近くの店で昼食をともにする。この暑い季節に、辛めの武漢料理だったせいか、食べていて汗が止まらないのには我ながら閉口するばかり…。早く宿舎に戻ってシャワーでも浴びよう、とそんなことばかり考えてしまいました。その前に、3号楼に立ち寄って、学院通知用の黒板に目を通す。「なになに?6月25日午後4時半から会議…かぁ。ふ~ん」と立ち去ろうとして、急に足が止まる。「6月…にじゅう、ごにちぃ?あれ?今日って…え?」わわわわっ、今日の予定じゃないか!虫の知らせかどうかわからないけど、ちゃんと黒板見に来てよかった。見落としてたら、会議無断欠席で、マジ、罰金ものだったよぉ(ひょえぇぇぇ~冷汗)。

 こんな具合に、相変わらずチグハグした生活を、綱渡りのように繰り返してる僕だけど、ま、少しずつ、本来の僕らしさを取り戻しつつあると、みなしてもらえるとうれしいんだけど…う~ん。さてさて、実際のところ、どうなんだろう。

人生五十年(『敦盛』)…に非ず

 武漢では連日「猛暑」に近く、日本の真夏を思わせる天候が続いています。ここしばらくは、雨らしい雨にもご無沙汰で、汗っかきの僕としては、昼間の外出もついつい億劫になってしまいがちです。みなさんは、どのようにお過ごしですか?

 先日、紫陽花のことにちょっと触れたら、さっそくHさんからコメントをいただきました(Hさん、どうもありがとうございました!)。コメントによると、朝日新聞が、日本のアジサイの名所についてアンケート調査をしていたとのこと。学生時代僕のお気に入りだったアジサイの名所に明月院(神奈川県)がありましたが、やはりアンケートでも2位に入っていました。6月の梅雨空の下に、淡い水彩画のような可憐な色を広げる明月院の紫陽花…その風景を思い出して、ふと懐かしさがこみ上げてきました。

 余談ですが、紫陽花の学名にはオタクサ(otakusa)という言葉が用いられています。命名したのは、幕末期に日本の長崎に滞在したシーボルト。彼は榎本滝を愛し、彼女を「お滝さん」(otakisan)と呼んでいたそうですが、彼女の名をとって紫陽花をotakusaと名付け、西洋に紹介したのだと言われています。ちなみに、長崎市の市花もまた紫陽花となっています。

 幕末の話になってしまったので、もう一つ余談を。先日ブログで紹介した吉田松陰先生のことについて。実は今年は吉田松陰没後150年に当たります。1830年生まれで、安政の大獄で59年に刑死しています。49年の生涯だったわけです。僕も昨年末に危うく松陰先生と同じ年齢で三途の川を渡ってしまいそうになったこともあり、ちょっと他人事という気がしません。それから、ついでのついでで恐縮ですけど、近代の文豪夏目漱石も49年の生涯でした。はは、何となく、歴史トリビアルっぽくなってしまいましたね…。いずれにせよ、なんとか49歳という年齢を奇跡的に通り過ぎてしまった僕としては、あらためて人生80年を目指して、マイペースの人生を生きていこうと思っている次第です(笑)。

つまずく石も縁の端…ってことで。

 この時間にブログを更新しようと思ってパソコンと向かい合ったのはいいけれど、ちょっと深く息をついてから「さて、何を書こうかな…」と心の中で呟いたとたんに、今日は、どういうわけかこれといった話題がすっと頭に浮かんで来ない。しばし腕組みをしたまま天井をにらんだ後で、「う~ん、たまには、そういうことも、あるんだよな」と僕は、まるで自分を慰めるように頭をぽりぽり掻いて呟いてみる。やれやれ…。

 ところで、この時期、本科生はさすがに期末試験の準備で大わらわなんだろうか。少なくとも、僕なんか、あるいは僕のブログなんかには構ってられないよ、って感じで、教科書とにらめっこをしてるのかもしれない。ま、それが学生の本分であるってことに違いはない。というわけで、学生諸君、試験対策に励んでくださいね。もちろん苦労してるのは君たちだけじゃないよ。僕も僕で、今のところ、ブログの更新に悪戦苦闘してる(とか何とか言いつつ、実は何かを書きたいって衝動が抑えられないだけなんだけどね)ところなのだから(笑)。

 そう言えば、僕はいつ頃から、こんなふうに駄文を書き連ねることが好きになってしまったんだろう?ちょっと考えてみようかな。うーん。そう言えば、小学生から中学生の頃にかけて、日記をつけるなんて作業は大の苦手だった。たまに、その気になって文房具店で日記帳を買ってきて、気合を入れて書き始めても、結局は…まるっきりの「三日坊主」なのだった。

 それでいて、ぼんやりと空を眺めている時などには(これがまた授業中であったりもしたわけだけど)、ひょいと詩の欠片のような言葉が思い浮かぶ。それをノートの片隅に書き留めておくのは、意外なことに結構好きだった。それから、夏休みや冬休みの課題として読書感想文なんていうのもあったけど、これもなかなか面白くて、あれやこれやと思いつくままに文章を書き連ねたものだった。こう考えてみると、どうやら、僕は、とりたててノルマだとか制約・条件だとかなしに好きなことを書け、と言われると、妙に喜んでしまう性格だったし、今でもそれは変わってないらしいのだ。

 …書くことが思いつかないとか何とか言いながら、結局、こんなふうに、だらだらと書いてしまうところが、僕の僕たるゆえん、なのかもしれないね。だから、ってわけじゃないけど、うちの学生になった以上(あるいは、それと全く関係なしにこのブログにたどり着いてしまった方も、できれば)、とことんまでつきあってくれるとうれしいな。

 袖触れ合うも多生の縁 つまづく石も縁の端…ってことで(笑)。あ、そう言えば僕自身「老石」って呼ばれてるんだった。ははは、おあとがよろしいようで。

ミネルヴァの梟 中空を舞う

 ミネルヴァの梟は夕暮れに飛ぶ。もちろん僕には、それほどの知性があるわけではないけれど、昼と夜の境目の、この逢魔ケ刻には、羽を広げて中空を舞ってみたい衝動にふっと駆られることもある。午後8時、ようやく光の領分が消えうせていく。遅い夕暮れ時だな、と思ったところでひょいと気がついた、今日は夏至、つまり1年でもっとも光が幅を利かせる日だったってことに。

 話は変わるけど、30分ほど前、タバコが切れていたので、近くの店にひと箱買いに行った。ついでにミネラルウォーターも1本。たばこの銘柄は「黄鶴楼」で20元。ミネラルウォーターは1.5リットル入りで2.5元。宿舎に帰る途中で気がついたのだけど、その通りのいちばん隅にある某ショップの前で屯(たむろ)している若者が10数人。ローラースケートのボードをかかえている。きっと、これから僕の宿舎脇の道路で、ガチャガチャワイワイと騒ぎ始めるのだろうな、やれやれ…と思わず夕闇の空を仰ぎ見てしまった。

 日本人は、よく「集団主義」と結び付けて論じられるのだけど、僕は、こうした屯というものになじむことができない。いつも言うように、僕はどちらかというとマイペースでしか生きていけないのだ。だから、本当に気の合う仲間が一人か二人いれば、それで十分、と割り切ってしまうところがある。もちろんこれは、どちらが、より好ましいかという問題じゃなくて、ただ性分の問題なんだけど。それにしても、集団になると、常識や他人への配慮などがけし飛んでしまうようであれば、そんな集団と付き合いたいとは金輪際思わない…ま、これも僕の性分。いずれにしたって、「中国人は一人なら龍、3人寄れば…」なんて言いまわしがあるけれど、騒音撒き散らしのジコチュウ・グループは、まさにそれそのものというほかない。やれやれ、だ。

 なんて愚痴っぽいことを書いてる間に、窓の外は完全に夜の領分になってしまってる。「思考」という名の宵の空間を彷徨い続けてるわけにもいかないような気がする。ちなみに、こんな拙い文章でも、きちんとつきあってくれる方がたとえ一人でもいてくれれば(…いるかな、本当に、どきどき)、と思うだけで、おそらく僕は救済されているに違いない、この果てしなく広い世界のほんの片隅でね。だから、う~ん、なんて言うか、つまり、「ありがとう」ってこと、かな。

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珍客出現 …って、いや、マジなんですけど。

 昨夜は、久しぶりに、というかほとんど2年ぶりの珍客に出会った。深夜01:30、畳の間のカーテンをよじ登る小さな黒い影。最初はどうせ羽虫か何かだろうと思いながら、形状がやや異なることに気づいて、ん?といぶかしんだ。見たところ体長8cmほど。近寄って見ると、サソリだった。空気の入れ替えよようと、窓を少し開けておいたので、たぶんその隙間から入り込んだらしい。まったく、哎呀!というほかなかった。

 日本でなら、たとえば百足(ムカデ)がどこからか入り込んで人を驚かせることはある。僕も中学生の頃、寝ている間に百足が布団に入り込んできて、右耳の下を噛まれたことがある。寝ぼけていたので、ジンとした痛みを感じてはいたが、まさかムカデに噛まれていたとは気づかず、朝目が覚めたあとで、鏡を見て驚いた。僕の顔の輪郭が変化していたからだ。ムカデの毒で、顔の右下部分が腫れあがっていた。ま、あれもいやなものではあったが、さすがに日本(…少なくとも僕の故郷では、と言ってもいいけど)にはサソリは自生していない。していたって、間違っても刺されたくはない。僕は用心しながら、カーテンの裾を窓の外に出し、サソリを振るい落とした。振るい落とした後で気がついたのだけど、記念のため、しっかり写真に撮っておけばよかった、と一瞬バカな思いに駆られてしまうのが、いかにもアホな僕の僕たるゆえんなのである。こうなるといっそのこと、日本の友人に聞いてみたいな。サソリと共存している僕って、ちょっとすごくない?って(笑)。

 今日は3年生から電話あり。用件は卒業論文について。彼女のテーマは、池田大作の教育論をめぐる比較研究なのだそうだ。教育制度論については、僕なりに指導することもできるとは思うけど、あくまでも池田大作をめぐる問題、というのであれば、僕の担当領域の埒外と言ったほうがいい(これにはいろいろな意味が含まれているけれど、ここではあえて触れないことにする)。むしろ、このテーマならL主任かY老師に、まずアドバイスを求めたほうがいい、と彼女に伝えるしかなかった。僕としては大変遺憾なことではありましたが…。

 もう1件。こちらは先日修士論文の審査を終えたばかりのMさんから。課程修了に当たり謝恩会を開きたいとのことで、来週の月曜日のスケジュールを尋ねられた。僕としては、もう事実上の週休7日体制に入ってしまってるので、完全にフリーだよ、と返答。いよいよ学年度末なんだなあ、と思う、しみじみと。

土着性としての長州

 昨日の話の続き、と言うか、ま、ちょっと臆面もなく、って気はしないでもないけど、わが故郷について書いてみようかなと思う…。

 初めて会った人に、よく聞かれる質問に、こういうのがある―「あなたのお国はどこですか?」

 ここにいう「国」とは、たとえば中国とか日本といった国家をさしているのではない。より狭義の地域、つまり故郷を意味する。だから、こう聞かれた場合、僕であれば「山口です」という答え方が正解である。すると相手は「山口(県)のどちらですか?」と切り返してきたりする。僕はまた「山口(市)です」と応じるわけである。「とすると、ご出身は長州なんですね」「はい」。案外、こういう会話は、日本全国で飽きもしないで交わされているんじゃないだろうかと僕は思う。ちなみに、長州というのは、現在の山口県のほぼ二分の一に当たる地域の、かつての呼び名である。正しくは長門国(ながとのくに)。残りの半分は周防国(すおうのくに)すなわち防州と呼ばれていた。防長二州をあわせて現在の山口県が出来上がるのである。

 国名(ないし藩名)として長州という呼び名が用いられていたのは江戸時代までである。つまり江戸幕藩体制下の日本というのは、こうした諸藩連合国家だったといってもよい。

 司馬遼太郎によれば、これらの諸藩にはそれぞれの特徴があり、ある地域(藩)で生まれ育った人間には、共通した性格が見られる、ということになる。司馬は、これを「土着性」と名づけている。長州人である僕はどうかというと、「怜悧」なのだそうである。もっとも、長州人に対するこうした見方は司馬独自のものではなく、幕末期における水戸学派の長州への批判として提起されたものであったらしい。それが正鵠を射たものかどうか、僕にはわからない。

 それはともかくとして、長州人の系譜からは、政治社会に多くの人材を輩出していることも確かである。過去の内閣総理大臣のうち、山口県出身者がもっとも多いことからも、それがわかる。初代首相伊藤博文もそうであるし、戦後でも岸信介・佐藤栄作兄弟も山口出身なのである。岸・佐藤兄弟は、奇遇にも、僕の出身高の先輩に当たる。また、安倍晋三元首相の父親である安倍晋太郎も同じく僕の高校の先輩だった。こうしてみると、政界にしろそれ以外の分野にしろ、山口県人つまり長州人は組織づくりに長けている、とも言われるのも、首肯できないわけではない。一方、左翼系では、日本における社会主義思想の先駆者である河上肇も、僕の出身校の第1期生であった。さらに戦後の日本共産党の再建と発展に尽力した宮本顕治も山口出身である。僕はどちらかというと、集団派ではなくマイペース型なので、上述の先達とは、性格にも才能にも雲泥の差があるような気がしてならないんだけど…。ただ、世の中の流行とはかかわりなく、時代変革への志は持ち続けている、という点で、わずかなりとも先達のDNAを僕も受け継いでいるのではないかと、自分を慰めているのである(笑)。こんな風な口をきくと、なんと大それた思いか、と笑われるかもしれませんけど…。ま、それが、僕という人間のお気楽おバカなところかもしれませんね。

世に棲む日々 先生を慕いて…

 自慢できる話ではないけれど、最近の僕はすっかり布団に身を投げ出して過ごしている。畳部屋に敷いたままなので、布団はほぼ万年床と化してしまっている。しかも、布団の周りには、文庫本だの単行本だの、その時の気分で本棚から引き抜いてきた本が何十冊となく積み重ねてあるのだ。この光景は、ちょっと学生たちには見せづらいものがあるなぁ、やっぱり。

 日本から運んできた本の冊数には限りがあるので、同じ本を何回も読み返すことになる。あらためて考えてみると、案外お気に入りの本というのは、日本に置いてきてしまったいることに、はたと気づかされるのだ。僕が時間つぶしに読む本と言えば、たいていは司馬遼太郎であったり、村上春樹であったり…と、僕にとってはどれもすっかり指になじんでしまっている作品群ばかりなのである。

 これらの作品を読み返すたびに思うのだけど、読むごとに何かしら新しい発見やひらめきに似た感覚が生じるのは、本当に不思議なものです。ところで、僕を歴史小説の世界に引きずり込んでくれたのは(もうかなり昔のことになるけれど)司馬遼太郎の『国盗り物語』や『世に棲む日々』などだった。どうして、急にそんな話をするかというと、実は今日寝転がって読んでいたのが司馬遼太郎の『八人との対話』という対談集だったからなんです(笑)。なかでも大江健三郎との対談「師弟の風景」に没頭してしまいました。その中で司馬・大江両氏が吉田松陰について語るくだりがある。松陰は、幕末に現れた思想家・教育者で、彼の存在なしに明治維新という「大業」を語ることは難しい、そう言って差し支えないほどの人材であった、と僕は思う。それに、たとえば孫文の座右の銘として有名な言葉に「天下為公」があるけれど、松陰の人格そのものもまた「公」のために鍛錬されぬいていた、という点も、松陰への敬慕をますます強めてくれる。彼が育成した松下村塾の出身者は、松陰の刑死後、すさまじい勢いで倒幕に命をかけていくのである。まさに「教育者」としての松陰を抜きにしては、そのエネルギーの表出は考えにくい。

 実のところ、僕にとって無条件で「先生=師」と呼ぶべき人は数多いるわけではない。だけど、松陰は、僕にとっては「松陰先生」なのである。僕も、いつかは松陰先生の足元には遠く及ばないにしても、凛然と自己の信念と良心に従って、学生と向かい合えるだけの教師になりたいと願っている。それも私欲のためでなく、あくまで「公=公共」のために。ちなみに松下村塾は今も史跡として山口県萩市に残されている。余談ながら、僕の本籍もまた萩の中なのである。

「有言実行」 感謝の気持ちを込めて

 今日で今学期の院生への講義はすべて終了。来週は学期末のレポート作成の時間にあててもらうことにした。というのも、今学期の成績は提出してもらったレポートの出来で判断することにしているからである。

 それにしても、今学期、言いかえればこの半年間というものは、僕にとって今までに経験したことのない日々の連続だった。体も気分も、まるで自分のものではないような、どこか不安定で宙ぶらりんの状態が長く続いていた、とでも言えば、多少とも察していただけるだろうか?

 実を言うと、これまでの人生で、僕は3回入院を経験したことがある。うち2回は、僕はまだ20代後半、東京の弁護士事務所で秘書として働いていた頃のことだった。病名はいずれも「自然気胸」で、入院期間は、それぞれ2週間と3週間、症状もさほど重くはなかった(それでも2度目のときは、かなりきつい思いをしたけれど…)。ただ、事務所にそれ以上の迷惑をかけてはいけないと、2度目の退院をきっかけに、退職を決意した。それは僕の人生の大きな岐路となった。健康も職も将来への展望も失い、人生のどん底に足が着いてしまったような気さえした。と同時に、かえってさばさばとした気持ちにもなった。これ以上失うものは僕にはない、恐れるものさえないのだ、と。そんな具合に、いったん腹が据わってしまうと、あとは這い上がるしかないのだ、たとえどれほどのエネルギーと時間を要するにしても…と。それは間違いなく僕の人生の再スタートだった。

 3回目の入院は去年の年末。どういう経緯で入院するに至ったかは、記憶がすべてけし飛んでいて、僕には実感がわかない。ただ、危うく一命を取り留めたというほどの重症だった…ということだけは、あとで周囲から散々に聞かされた。それでも奇跡的な回復と担当医師から言われ、3週間で退院することができた。入院中も退院中も多くの方にご心配をおかけしてきたし、支えてきていただいた。そのことに、どう感謝すればいいのか、言葉さえ思い浮かばないほどだった。ただ、僕にとって、退院後の生活は、心身ともに完全な復調感がないまま過ぎていった。ある意味で、リハビリのきつさというものを、味わい続けてきたといっても言いすぎでなかったように思う。

 とにもかくにも、半年が過ぎた。今でも、元通りの僕に戻れるのかどうかはわからない。だけど、わからなくても、つまるところ僕は僕でしかない。今の僕にできる、すべてのことに、初心に立ち戻ってチャレンジしていくこと。それが今の僕にできる感謝のかたち…。有言実行、僕の思いはその一言に尽きる。ありがとうございました。これからも、どうぞよろしく。

梅雨の追憶

 日本の天気予報では、今年の梅雨、西日本では少雨になりそうだ、とのこと。僕の生まれ故郷は本州の西端に位置しているので、もちろん西日本である。6月のこの時期ともなれば、すでに梅雨入りして、目に映るすべての風景がぼうっと水気に靄めいていた。窓を開けて、雨の匂いをかぐと、体の中まで水で満たされたような気がした。そういう意味で、日本はまさしく水の国なのだ、と感じたものだった。

 梅雨入りする季節で、かつて僕がもっとも好きだったのは、蛍の舞い飛ぶ宵闇の風景だった。僕の家の周りではゲンジボタルが自生していた。夕暮れともなれば、小さな川のほとりから、ひとつ、またひとつ、やがて闇が深まるにつれて無数の淡い光がふりしきる風花のように宙を舞った。それが5月の末から6月の初めにかけての、僕の「原風景」と言ってよかった。

 6月と言えば、また紫陽花の季節でもある。東京の大学に通っていた僕は、ふと思い立って鎌倉まで足を伸ばすことがあった。梅雨の合間で、雲の切れ目からまばゆいほどの青空が見える日には、北鎌倉で降りて、史跡を縫うように鎌倉駅まであてどなく歩くのが好きだった。道すがら紫陽花寺と呼ばれる名所にもふらりと立ち寄ったりしたものだった。散歩の終着点では、空腹を満たすために、決まってうな重を注文した。今思い返してみれば、僕がうなぎ好きになったのも梅雨の合間の鎌倉でのことだったわけだ。

 ところで、僕が中国に来て、そろそろ丸7年になる。青島には梅雨というものがなかったし、武漢も日本の梅雨とは趣が異なる。たぶん、今年の西日本並みの空梅雨に近いと言っていいような感じなのだ。今日も、朝から快晴。外を歩くときには、ミネラルウォーターなしではいられないほどだ。

 水蒸気に包みこまれた新緑の梅雨を、何となく懐かしく思い出す昼下がり、僕はこうしてブログ日記を更新している。いつか、こうした「日常」というものを、何かの拍子に不意に思い浮かべる日が来るのかな…?そんなとるに足らないささやかな懐疑を語るべき相手が、今目の前にいないということも含めて、だけど。

武漢の夏 あ、あつい…

 もう何度も話したことがあるような気もするけど、本当に武漢の夏は暑い。上海に比べて、3、4度は気温が高めの感じがする。今日はまったく仕事が入っていなかったので、食事のとき以外はずっと宿舎に閉じこもったまま過ごしたのだけれど、ついついクーラーのリモコンスイッチに手が伸びてしまった。クーラーなしに武漢の夏を乗り切ることは、少なくとも僕には至難の業、というほかない。いや、本当にこれ冗談抜きで…(笑)。

 ところで、お昼ごはんを食べに出かけた後、宿舎に戻って、畳の間でお昼寝(う~ん、こんな習慣、幼稚園児のようだけど、中国ではこれが一般的。決して僕一人が怠けれるわけはないので…いや、これまた冗談抜きの話です)。で、この部屋にはクーラーは備えつけられていないんだけど、寝てしまえば暑さも気にはならない…と思ってたら、これがまたまた大間違い。1時間後、僕は汗まみれになって、ぶわわわっ!と目覚めてしまっていた。布団の上に起き上がって、しばらくはぼぉーっと茹でダコ状態の頭で何も考えられなかったほど。これは誇張なしの状態だっただけに、「ひょえぇぇぇ、参ったな、この暑さはー」と愚痴にもならない独り言を呟く僕だった、やれやれ。窓の外からは微かに夏虫の鳴き声が聞こえていた。暦の上では、まだ6月の15日だけど、この気温感覚は、日本でなら梅雨明けの時期に相当するような気がする…。こうなるともう、ごきゅごきゅと冷たい水でも飲んでこの暑さをしのぐしかないなー。

 で、話は線香花火の火のように飛んでしまうけど、今日は同僚Yさんの誕生日だった。ケータイの短信でお祝いのメッセージを送る。即座に「わ、ありがと」の返信が届く。今日初めての対人コミュニケーション…って僕という人間は一体どんな生活してるんだろ。何となく客観的に自己分析するのが、怖くなってきたな、はは。午後は、卒業したばかりのWさん、Zさんとネット上でチャット。うーむ、こうなるともう僕は自分が隔離された患者のような気分になってくるな。こうなると、いっそのこと、だれか手ぶらで面会に来てくれないかな。

 で、話はまた武漢の夏の暑さについて。武漢の夏の特徴は、夜にある。日が沈んでも気温が下がらないのだ。この時間も、クーラーを切ってしまうと、むんと蒸し暑さに包まれる。ダイエット志願の方なら、ここの生活、案外効果的かもしれない。しかしっ!僕の場合、体重の5kg復帰を目指してるので、とにかくクーラーに依存してしまうのだ。というわけで、涼しさを求めてる人も、どうか手ぶらで面会に来てください。どぞ、よろしく。

浦東で考えたこと…

 午前8時40分、僕は上海浦東空港C55搭乗ゲートを見下ろすカフェテラスに座っていた。武漢行き南方航空便が出るのは10時45分。まだ2時間以上の待ち時間があった。昨日の国際フォーラムの会場となったS外大を出たのは、7時半。手荷物が重かったせいもあって、大学の迎賓館前に止まっていたタクシーに乗り、空港に向かったので、思ったよりも早く空港に着いてしまったのだ。朝食をとらずに出てきたので、この待ち時間に軽く腹ごなしでも…、とゲートの上の階にあるカフェテラスに足を運んだだけのことだったけれど。

 時間が早かったせいか、それとも第2ターミナルのいちばん端のゲート近くであったせいか、とにかく僕以外に客の姿はなかった。年の若い女性服務員(ウェイトレス)の持ってきたメニューを受け取ると、彼女は僕を日本人だと見たのか(それは確かに正しい判断だったけど…)「いらっしゃいませ」と片言の日本語で僕に語りかけた。「ミックスサンドはどうですか?人気があります。」僕は笑いながら、うなずいた。「ああ、それから、アイスコーヒーも」と付け加えるのも僕は忘れなかった。

 僕はコーヒーとサンド一致が届くのを待ちながら、ぼんやりと滑走路を眺めていた。ターミナル内は、懐かしい「ホテル・カリフォルニア」がBGMとして流れていた。やがて目の前に置かれたサンドをほおばり、アイスコーヒーでのどを潤した。時間だけが、音もなく、日差しの中に溶け込むように消え去っていく午前のひと時…。

 実質2日間の上海滞在で感じたのは、どうしてもテンションが上がらないでいる自分を、どう扱えばいいかという、どこかしら醒めた思いだった。焦ってはいけない、回復には、自分が思ったより時間がかかるものなんだ、とこの半年間自分に言い聞かせ続けてはいるけれど、上海が、そんな僕への「気付け薬」にさえなり得なかったのは…。やっぱり、やれやれ、といういつもの軽いため息を僕につかせたのだった。そして、グラスに残っていたアイスコーヒーをすっかり飲み干すと、僕は席を立ち、階下に向かった。

 武漢の宿舎にたどり着いたのは、午後2時少し前だった。旅行中の着替えを洗濯機に放り込み、スイッチを押すと、僕は崩れるように布団の上に倒れこんで、眠りに落ちた…。

 夕方軽く食事をして、科学会堂に向かった。6時半から卒業晩会があるので、ぜひ来てください、と4年生に誘われていたのだった。卒業生を送り出す時に、余計なセリフはいらない…僕はいつもそう思ってしまう。僕はいつでもここにいる。これが永遠の別れであるわけでもない(…たぶんね)。「一期一会」の持つ意味の深さを骨身にしみとおるほど味わっている僕だけど、今年はそれだけになおいっそう、いつもと同じ「僕」として、4年生を未来に向かって送り出したいと思うのだ。というわけで、4年生の諸君、みんな、元気で!それから、新しい明日に向かってまっすぐにその一歩を踏み出していってください。

あっれー?

 今朝は8時半から外国語学院の卒業典礼が催された。昨夜、4年生のQ君から「来て下さい」とネット上で誘いを受けていたので、早起きをして会場となっている科学会堂に足を運んだ。Q君の話ではL主任も出席とのことだったので、僕は会場の隅っこで式典を見せてもらっていればいいな、と軽い気分であったが、肝心のL主任が来ない…。日本語学部の教員は僕一人であった。あっれー?結局、「代役」みたいな感じで、また壇上に引きずり上げられてしまう始末…。でも、まー、卒業生をそれなりに礼節を持って送り出す役を与えていただいたことには、感謝、感謝。

 ところで、そうした急場の代役のせいではないだろうけど、今日は肩こりとお腹の調子の悪さに悩まされた。食欲もないまま、午後は完全休養。ちょっと情けない午後だったなー。気分をすっきりさせるために、ってことで夕方4時に教学楼に向かう。教学楼の下でばったりY老師と出会う。そこで、期末試験の出題法や採点基準について立ち話。

 教研室に着くと、L主任の授業を終えたばかりの院生と出会い、一緒に南門あたりで夕食をとることに。これが本日唯一まともな食事であった(…反省。とほほ)。明日は日本への往復航空チケットを購入するため、食後そのままXさんが、僕のチケット代金とパスポートの写しを受け取りに来る。

 とは言うものの、体調の悪さは、そのあとも抜けきらず、結局夜11時に風呂に入って体を温める。このブログ日記の更新がすんだら、上海行きの準備をして、さっさと眠りにつくことにしよう…と思ってるんだけど、窓の外からは、またしても知性の欠片も感じられない昨日の迷惑騒音が響いてくる…怒怒怒(泣)。

 ま、気分を取り直して…と。えーっと、明日から2泊3日で上海に出張。その間はブログの更新はお休みです。ではでは。

深夜のつぶやき、再び…。

 午前中にブログ日記を書いてしまったので、今夜はもう更新はしないつもりだったんだけど…事情変更。

 最近は、同じ話をよく繰り返すようになったと院生から笑われるけれど、実際のところ、繰り返して愚痴をこぼさずにはいられないことがあることも事実なんだよね。いわゆる「西門深夜騒音」の問題なのだ。

 今日も、夜11時を過ぎて、キャンパス西門を入ったところで、ローラーボードをガチャガチャ言わせながら遊び続けている若者がいるのだ。同じ輩かどうかはわからないけれど、時には午前0時を回ってもギターをかき鳴らしたり、若い男女の嬌声が午前3時ごろまで鳴り響いていることさえある。

 いずれにしても、ここは大学のキャンパス内だし、夜10時を過ぎれば、物音ひとつしなくなるような場所だった。少なくとも去年までは、だけど。それが、今年に入って、周りの迷惑なんか一考だにしない自己中心的な若者が西門付近に繁殖し始めた、ということなんだろうか…。

 困ったことに、僕は事故による心理的な後遺症(?)のせいかもしれないけれど、深夜うまく睡眠することができなくなっている。そういう状況に追い討ちをかけるように、深夜の騒音が僕の苦しめているのである。こういう非文明的な騒音の発生源はさっさとキャンパス内から排除してほしい…というのが今の僕の偽らざる気持ちなんだけど…これって僕の勝手な思いに過ぎないのかな…う~む。

昼前日記…?なんのこっちゃ…

 このブログ日記にしては珍しく、午前中の書き込みです。

 昨日は、午前の授業を終えてから軽い昼食。あたふたと教学楼に戻って、4年生の卒業論文の総合評価を完成させなければならなかった。教務処への提出期限が迫っていたからである。結局完成したのは、午後の授業の合間で、締め切りになんとか滑り込みセーフ…思わず安堵のため息だった。いずれにしても、これで4年生は卒業を待つだけとなった。今の僕としては、卒業生の実社会での活躍とそれぞれの夢の実現を、同じ空の下で祈るばかりである。

 ところで、午後2時半、大学の北門でM大学の学生2人と待ち合わせ。彼らが執筆・編集した新聞「桜曜日」をいただいた。これをうちの日本語学部の2、3年生に是非読んでもらいたい、との由。僕としても学生たちに読んでほしいと思う、出来上がりのよさだった。M大日本語学部の皆さんには、この場をお借りして、あらためて御礼申し上げます。

 さて、午後の授業を終えてから、ほかの教員は9号楼で夜7時から催される講演に参加を呼び掛けられていたらしい。僕は、と言うと、科学会堂で7時半から行われる晩会に呼ばれていた。電話で招待されていたのだけど、会話は全部中国語だったので、晩会の内容はわからず仕舞い…。それでも「まっ、いっかー」と足を運んでしまうところが、僕のお気楽的性格そのもの(笑)…。実際出かけてみると、会場となってる報告庁の中央掲示に「第四届感動校園人物評選活動」とある。ん?何だ?名前を呼ばれて、指定された席に着くとパンフレットが置かれている。その中に「十大感動校園教師」の文字…。つまり、キャンパスを感動させた10人の教師の一人に僕も選ばれた、ということらしい。その瞬間、内心ではひょえー、冷や汗タラタラものであった。というのも、今学期は事故後の療養を兼ねて、本科生の授業を免除していただいているのに、と全方向に向かって申し訳ない気持ちでいっぱいだったので。いずれにしても、いただいた賞に報いるためにも、来学期はまた学生本位で、悔いなく仕事に専心させていただきますので、どうぞよろしくお願いします><

 あれれ?あっという間に(というか、こんな昼間に下手な文章を書き連ねるのは、僕としてはどーもしっくりこない気が、するんだよな…)、お昼休みになってしまいました。ちょっとおなかも空いてきたので、お昼ごはんを食べに行ってきます。ではでは。

 

rainy-seasonに何思う…あ、やばいっ

 昨日からしとしとと降り続く雨。コーヒーを淹れながら、ふと思った。ひょっとして、これって梅雨の走りかしら、と。

 今日は、午後2時に、論文指導を担当した4年生と教学楼で待ち合わせをして、卒業論文の完成版を受け取ることになっていた。傘をさして、教学楼まで散歩がてら出かけたのだけれど、道路はところどころ川のように雨水が流れているし、雨に打たれて散った広葉樹の葉が、舗道の上を覆っていた。武漢にも、日本と同じように梅雨が来るのだなぁ。個人的には、着ている服の袖や裾のあたりが雨でぬれたり、靴の中に雨が染み透ってこないかぎり、雨は嫌いじゃない。でも傘のさし方がいまだに下手な僕は、たいてい雨でずぶぬれになってしまうのが常なのだ。ああ、梅雨か…もっとも、武漢では梅雨前線なんて言葉はあまり耳にしないけど。

 僕にとって梅雨というのは、実は「要注意」の季節。気温が上がり、湿度も高くなって、もともと汗をかきやすい僕としては、水分の補給が欠かせない。だけど、水分を取りすぎると、食欲は落ちるし、おなかの調子も悪くなりやすい。…というわけで、実は今日の僕、トイレ占拠時間が長かったんだよなぁ、さっそくおなかこわしてしまったみたいで(まぁ、大したことはなかったけど…)。

 さて、コーヒーも飲み終わったし、シャワーでも浴びて、気分リフレッシュ!の時間かな、そろそろ。で、気分がすっきりしたら、深夜の研究タイムに入りたいと思います。なんてったって、今週末は上海で国際フォーラムが…あるんだった>< え、と…あ、あと4日しかないじゃん!? 準備が、準備が…あ、全然進んでない…。や、やばい、かも。が、がんばれっ、自分!

6月のため息か… 

 6月に入って、気温と湿度がグンと上がってきたな、と実感する。宿舎の書斎では、クーラーがすでに地力を発揮してくれているおかげで、書斎を一歩出れば、ムンとした熱気に全身が包まれてしまうから、余計にそう感じるのかもしれない。ぜいたくな悩みと言ってしまえばそれまでだけど、夏バテしやすい僕としては、クーラーなしの武漢暮らしなんて、想像しただけでくらくらとめまいが起きそうなのだから仕方ない。あーあ、我ながら軟弱だなぁと思ってしまう6月…やれやれ。

 今日は午後2時半、それから午後7時、合わせて2件の学院行事に誘われて出かけてきた。ちょっと顔を出すだけでも少しは役に立つのなら、ま、いっかーというノリ…じゃあないんです、今の僕の場合。今学期は、お誘いを受ければ、たとえ週末だろうと休日だろうとお構いなしにいそいそと出かけてしまいますから。さもなければ、僕は無人島で膝を抱えて海と空が溶け合うあたりをぼーっと眺めて過ごすロビンソン=クルーソーになりきってしまうにちがいない…。あー、これまた、やれやれの世界だ。

 ところで、今学期はこんな超私的なため息「やれやれ」の世界に浸りきってるせいか、それとも本科生の担当科目がないせいか、今学期はブログを読んでくれる学生の数が半減してしまったまま、なのである。日によっては日本からのアクセスのほうが多いことさえあるので、うーむ…。一応、これって教学研究項目に採用されているので、アクセス数が減ってしまっている状況をどう改善すべきか、頭をひねらなきゃいけない段階に至ってるような気がするな。ってゆーか、すでにかなりヤバい状況なんじゃあるまいか(泣)。だからと言っていい大人がただヨヨヨと泣き崩れてもしょうがない…などと深夜の独白を繰り返すばかりの僕なのである。ははは、さーて、どーしよー?

 ↑ ってなことを気にしながらも、実際のところ、僕は生まれながらのお気楽・能天気人間なので、とりあえず、何がしかこうやってブログに書き込んでれば、シアワセなのである。まったく、やれやれの三乗、って言うしかなさそうだね、僕って人間は。要するに何が言いたいかと言えば…どーか僕を見捨てずに、このブログに付き合ってくださいねーという要望ないし哀願(笑)…ってことです。どぞ、よろしく。

夏を待つ季節に

 昨日のブログ日記については、特に閲覧制限を受けることもなくすんだようです。日本であれば、当たり前のことに過ぎませんが、この国では、国内政治史の「負」の側面について語ろうとするとき、それなりの配慮をしなくてはならない、という事実は覆い隠せないし、そのことをあえてここで指摘しておきたいと僕が思うのも、この国の将来を思えばこそなのです(ちょっと大げさな、と思われるかもしれないけれど…でも、その重要性はいつか必ずこの国の未来史が証明してくれると信じています)。

 さて、と。重い話をするばかりが、ブログではないですよね。今日は一日ずっと部屋に閉じこもって過ごしてしまいました。やらなければならない仕事は、まだまだたくさんあるのだけれど、どうしても気分的に乗ってこない、という弱さが、僕の中に残っています。自分自身に対して焦る気持ちに耐えることが、今の僕の課題なんだ、と何かの呪文のように己に向かって言い聞かせています。

 夕方、D老師から電話。夕食を一緒に、という誘いでした。最近、一人でいると食欲もわかないので、この誘いは天からの恵みに近い、と言っても誇張ではありません。西門前で待ち合わせ、群光広場へ。そこでおなかにやさしい和食をいただく。D老師とおしゃべりをしていて、ふと言われたセリフ…「『海辺の街の物語』の続きを読みたいですねぇ」。あああ、覚えていてくださいましたか…そういえば、去年大けがをして以来、そのお話は中断したままになっているのでした。同じセリフを、ほんの少し前、山東省にいる卒業生からも聞かされていたのでした。というわけで…はい、そうですね。書かなくては。一人でも続きを待ってくれる人がいるかぎり、途中で筆を折るなんてことはしたくないですから。でも、もう少し待ってくださいね。あのお話の続きを書くときは、僕は心身ともに完全に復調したときです。だから、あともう少し…真夏の日差しが肌に差し込みそうになる頃には、続編を、このブログに載せられると思います(笑)。

 ところで、こんな時間だけど、キッチンで茹でていた枝豆が茹であがりました。さっと塩をまぶしてから、食べることにします。僕にとっては、これも夏の風物詩。へへへ、ではでは。

沈思 20年の月日を超えて

 一昨日は、6月4日だった。あえて書くことを避けたけれども、この日は中国の首都で、ある歴史的な事件が起こってからちょうど20周年に当たる日だった。それは、故宮の門前に位置する有名な広場で起こった事件であり、日本ではその広場の名称を冠して「天**事件」と呼ばれている。僕は今、奥歯にモノのはさまったような、遠回しな言い方をしているが、それもやむを得ないことなのだ。もし、この事件について、明瞭に語れば、おそらく僕のブログは、即座に閲覧不能になってしまう怖れがあるからである。中国のネット情報は国家によって事実上の検閲・管理が行われていることは周知の事実であるし、いくら僕だってことさらに危険人物にリストアップされるようなリスクを負いたいとも思わない…というわけで、こんな隔靴掻痒の感のある文章になってしまうのだ。そこのところは、わかってもらえるかなぁ。ただ、この事件についてはひと言述べておきたいことがある。20年前のその日、僕は日本の地方都市に住んでいて、TV画面を食い入るようにして見つめていたのだった。人民を桎梏から解放するための軍隊が、広場を席巻して、こともあろうに自らの人民に向かって…いや、これ以上は口にすまい。その瞬間に僕が受けた精神的衝撃は並大抵のものではなかった。この日が歴史に刻んだ刻印は、わずか20年という月日で風化するほど浅いものではなかった、と今でも僕は思う。それにもかかわらず、当の中国人自身が、そうした過去に一瞥も与えようとしていない一昨日の過ぎ行き方に、僕は別の意味で深い哀しみを感じた。どう言えばいいのか悩むけれど、僕は、この国の健やかで調和的発展を願っている。全面的な小康社会の実現に、たとえ微力でも貢献をしたいと思ってもいる。それが今の、そしてこれからの僕の歩むべき道である。だからこそ、この20年というものを常に振り返りながら、自らの姿勢を正しながら生きていかなければならないと思う。それなのに、愛国心あふれる中国の青年たちには、20年前の出来事は取るに足らない瑣末な事件でしかなかったようだった。70年前の日本の侵略行為については、繰り返し頭に刷り込まれているにもかかわらず、である。くどいようだけど、僕は、決して中国の現在の政策を道理もなく批判しているわけではない。ただ、戦争時代のことであれ、内政のことであれ、冷静に歴史を認識し、未来への教訓としていく生き方は、他国に要求するだけでなく、自らにも求めていかなければならないと思うだけである。僕が本当に願っているのは、中国の健やかで調和的な発展への、厳しくも着実な一歩である。

 という重い話はさておき、今日は3年生3人から相談を受けた。いずれも卒業論文についての相談。こういう前向きな姿勢には、心からのエールを送りたい(笑)。それぞれテーマは「日本におけるニート」、「日本のアニメ・漫画文化が中国(語)に与えた影響」、「日本の政治」であった。それぞれのテーマの核心的部分はまだ曖昧なままだったので、まずはそれぞれの分野での基本書を探すことから始めるべきであろう。僕はささやかな手がかりを与えたにとどまったが、そこから彼らが何を獲得して、次の段階にステップアップしてくるか、心から期待している。

 あ、そういえば、今日は朗読会。テーマは「日本の和歌・古典編」であった。何といっても、僕の大好きな世界で、今日は万葉集の初期作品群について、あれこれとおしゃべり。来週の朗読会は休みで、次回は再来週となる。次回も和歌の世界に浸りきることにします。ちょっとでも関心を持っていただけたら、ご遠慮なくお越しください。

6月 緑の中 僕は…

 最近どういうわけだかたまにインタヴューを受けることがある。ところが僕は、困ったことにそういう場面をできるだけ避けたいと思ってしまうタイプなのだ。とはいっても、そこに深い理由があるわけじゃない。たんに見知らぬ人から個人的な事柄についてあれこれと聞かれることに慣れることがどうしてもできないからだし、何よりも気恥ずかしさが表に立ってしまうからだ。それに、質問された内容に、思わず「はぁ?」と思わず首をかしげたくなるケースだって少なくない、っていうのもその一因になっている。たとえば、「お好きな本は何ですか?」 こう聞かれると、「ちょ、ちょっと待ってくれっ!」と悲鳴交じりに相手の問いかけを制したくなってしまうのだ、いや、マジにジョーダン抜きで(泣)。僕だって一応は大学の教壇に立って、学生たちに日本の文化・社会について講義もしなければならないし、時間が空いたときには、大した価値はないかもしれないけれど自分なりの専門研究に没頭しなければならない立場にあるんですね。つまり、本を読むことは仕事の一部でもあるというか、極論を言えば、本好きが高じてこの世界に入ったようなものといっても過言ではないんだよね…ぶつぶつ。それなのにノウテンキに「お好きな本は?」と聞かれても、思わず頭を掻いて、ウ~ンと唸るしかなくなってしまう僕は、どこかおかしいのでしょうか。うーん。

 話は変わって、僕の生活必需品について。以前であれば、迷いもなく、コーヒーと答えたに違いない。それも120%の確率で。朝起きてまず1杯目。そして寝る前に最後の1杯。数えてみれば、1日平均7、8杯はコーヒーを飲んでいた。完全なカフェイン依存症だったわけです。ところが、今年に入ってコーヒー依存度が急落…。今日なんて、今飲んでいる1杯が、1日の最初で、たぶん最後の1杯なのだ。怪我をして以来、最も大きな変化の一つが、嗜好の変化だったのかもしれない。ま、昔から飲みすぎに注意と言われ続けていたので、苦もなく適量に減らせたのだから、こんなことで悩む必要もないのかもしれないけど…やっぱり、気分はどことなく、う~ん、なんだよなぁ、ぶつぶつ…。

 あれ…?気がついたら、歯切れの悪い「う~ん、ぶつぶつ…」って話の連発じゃないか。やれやれ、6月に入って「衣替え」の季節を迎えたことだし、僕もそろそろ気分一新、回復の狼煙を上げなくちゃいけないと思ってたばかりだったのに。ははは。

 とういうわけで、6月の緑の中、僕もそろそろ全開モードに戻ります。オーバーワークでエンストを起こさない程度に、だけど。

論文審査の日々

 昨日は午後から卒論答弁会。研究分野ごとに4班に分かれての審査を行う。僕の担当グループの学生は総勢12名。答弁審査の結果は、ここに記すわけにはいかないので…まあ、路頭に迷うような結末が待っているわけではなさそうだ、とだけこっそり述べておくことにします。それにしても、異文化とりわけ日本のそれを研究するにあたって問題となるのは、邦語文献の収集、客観的な分析の難しさ、といったところ。それに加えて、じっくりと自分の頭の中で考察を深めていく知的「熟成」能力にも、懸念を抱かざるを得ない。それが、毎年卒論審査をさせていただいていて感じる課題点です。僕のささやかな感想が、「後輩の皆さん」にとって多少の参考ともなれば幸いなんですけど…。

 明日は、大学院碩士(修士)課程修了予定者の論文審査。今年の該当者はW君とMさん。司馬遼太郎を研究対象とするW君に対して、Mさんは横光利一を扱う。当然のことながら、学部の卒論審査とは質量ともに一味もふた味も違う、深みのある質疑応答になるようにしたいと思います。

 ところで、今日は来年度(2009-2010)の契約協議書にサイン。これがないと、居留証の更新ができないのだ。僕の居留期限は、今週の金曜日。それを過ぎると不法滞在となりかねないので、ちょっと焦っていた。うーん、それにしても、この国の行政課題の一つなんだけど、いろいろな手続きが、とにかく期限ぎりぎりになってしまう。もう少し余裕を持って、テキパキと処理してもらえないものだろうか…。なにはともあれ、明日はできたてほやほやの契約協議書の写しをもって外事処に足を運ばないといけない。と考えてみると、明日はバタバタとあわただしい一日になりそうだな、という予感がむくむくと胸の中に沸き起こらずにはいられない今宵なのである。

 というわけで、愚痴っぽいおしゃべりを書ききってしまったら、今日の任務はすべて終了。あとはお風呂に入って、さっぱりと汗を流してしまおう(笑)。じゃあね。

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「お風呂を買ってルンルンしよう」(12/18)中国語訳が追加されました。2008-12-20 NEW

「夢が試される場所」(12/11)中国語訳が追加されました。2008-12-20 NEW

「16Daysのカウントダウン」(12/16)中国語訳が追加されました。2008-12-18 NEW

「お風呂を買ってルンルンしよう」(12/18)語注が追加されました。2008-12-18 NEW

「焼きうどん のち メランコリック」(12/17)中国語訳が追加されました。2008-12-17 NEW

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「夢が試される場所」(12/11)語注が追加されました。2008-12-11 

「夢の背中」(12/10)中国語訳が追加されました。2008-12-11 

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一石亭華中

Author:一石亭華中
ようこそ、本ブログページへ。
一石亭は中国在住8年目を
迎えました。
でも中国語はまだ初歩の初歩。
趣味は「お仕事」と散歩、それに写真撮影。
あ、それからお昼寝も…趣味のうち、かも…。

YouTube今週のウタちか

凹んだとき、元気がでないとき、僕を支えてくれ、力づけてくれるウタを週替わりで紹介します。ちょっと古い歌が多いかも…ですが。今週も「ちょっと切ない歌」を。

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